1785年に砲兵士官として任官。1789年、フランス革命が勃発し、フランス国内の情勢は不穏なものとなっていく。そうした中、ナポレオンは1792年に先のコルシカ独立戦争でコルシカ側が敗北したことによりフランス領となっていたコルシカ島に配属され、アジャクシオの衛兵隊中佐となるが、英国に逃れている独立派指導者パスカル・パオリの腹心でナポレオンと縁戚関係にもあるポッツォ・ディ・ボルゴらによってブオナパルテ家弾劾決議を下され、ナポレオンと家族は追放に近い逃避行によってマルセイユに移住することとなった。
マルセイユでは、ブオナパルテ家は裕福な商家であるクラリー家と親交を深め、ナポレオンの兄ジョゼフは、クラリー家の娘ジュリーと結婚した。ナポレオンもクラリー家の末娘デジレと恋仲となり、婚約する。この頃ナポレオンは、己の政治信条を語る小冊子『ポーケールの晩餐』を著して、当時のフランス政府の中心にいた有力者ロベスピエール等の知遇を得ていた。
1793年、国民公会の議員の推薦を受け、ナポレオンはフランス軍大尉としてトゥーロンに赴任し、ただちに少佐に任命される。当時の欧州情勢としては、「フランス革命政府」対「反革命側」の図式があり、港町トゥーロンにはイギリス・スペイン艦隊の支援を受けた反革命側が鉄壁の防御陣を敷いていた。革命後の混乱で人材の乏しいフランス革命政府側は、港への無謀ともいえる突撃を繰り返して自ら大損害をこうむっているような状況であった。ここでナポレオンは、まずは港を見下ろすふたつの高地を奪取して、次にそこから敵艦隊を大砲で狙い撃ちにする、という作戦を進言する。司令官のデュゴミエはこれを採用し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ。ナポレオン自身は足を負傷したが、この功績により、当時24歳の彼は一挙に少将へと昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられた。また国民議会は政府の使節フーゴ・バスバイユが殺された事件をきっかけに教皇領に侵攻する決定を下すが、ナポレオンはこのとき司令官に任じられており戦いでも勝利をおさめた。
1794年に革命政府内でロベスピエールがテルミドールのクーデターで失脚して処刑され、ナポレオンはロベスピエールの弟オーギュスタンと繋がりがあったことなどにより逮捕、収監された。短期拘留であったものの、軍務もはずされ休職状態となってしまった。
しかし1795年、パリにおいて王党派の蜂起が起こり、これに手を焼いた国民公会軍司令官ポール・バラスによってナポレオンは軍に再び登用され、首都の市街地で大砲を撃つという大胆な戦法をとり鎮圧に成功。これによってナポレオンは中将に昇進、国内軍司令官の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとった。
1805年、ナポレオンはイギリス上陸を目指してドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結させた。イギリスはこれに対してオーストリア・ロシアなどを引き込んで第三次対仏大同盟を結成。プロイセンは同盟に対して中立的な立場を取ったもののイギリス・オーストリアからの外交の手は常に伸びており、ナポレオンはこれを中立のままにしておくためにイギリスから奪ったハノーヴァーをプロイセンに譲渡するとの約束をした。
1805年10月、ネルソン率いるイギリス海軍の前にトラファルガーの海戦にて完敗。イギリス上陸作戦は失敗に終わる。尤もナポレオンはこの敗戦の報を握り潰し、この敗戦の重要性は、英仏ともに戦後になってようやく理解される事になったという。
海ではイギリスに敗れたフランス軍だが、陸上では10月のウルムの戦いでオーストリア軍を破り、ウィーンを占領した。オーストリアのフランツ1世の軍は北に逃れ、その救援に来たロシアのアレクサンドル1世の軍と合流。フランス軍とオーストリア・ロシア軍は、奇しくもナポレオン1世の即位一周年の12月2日にアウステルリッツ郊外のプラツェン高地で激突。このアウステルリッツの戦いは三人の皇帝が一つの戦場に会したことから三帝会戦とも呼ばれる。ここはナポレオンの巧妙な作戦で完勝し、12月にフランスとオーストリアの間でプレスブルク条約が結ばれ、フランスへの多額の賠償金支払いと領土の割譲等が取り決められ、第三次対仏大同盟は崩壊した。イギリス首相ウィリアム・ピットは、この敗戦に衝撃を受け、翌年に没した。ちなみに凱旋門はアウステルリッツの戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が1806年に建築を命じたものである。
戦場から逃れたアレクサンドル1世はイギリス・プロイセンと手を組み、1806年10月にはプロイセンが中心となって第四次対仏大同盟を結成した。これに対しナポレオンは、10月のイエナの戦い・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝してベルリンを占領し、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はポーランドへと逃亡する。こうしてロシア・イギリス・スウェーデン・オスマン帝国以外のヨーロッパ中央をほぼ制圧したナポレオンは兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に就け、西南ドイツ一帯をライン同盟としてこれを保護国化することで以後のドイツにおいても強い影響力を持った。これらのことにより、長い歴史を誇ってきた神聖ローマ帝国は事実上解体された。
並行して1806年11月にはイギリスへの対抗策として、大陸封鎖令を出して、ロシア・プロイセンを含めた欧州大陸諸国とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮に落としフランスの市場を広げようと目論んだが、これは産業革命後のイギリスの製品を輸入していた諸国やフランス民衆の不満を買うこととなった。
ナポレオンは残る強敵ロシアへの足がかりとして、プロイセン王を追ってポーランドでプロイセン・ロシアの連合軍に戦いを挑んだ。ここで若く美しいポーランド貴族の夫人マリア・ヴァレフスカと出会った。彼女はナポレオンの愛人となり、後にナポレオンの庶子アレクサンドル・ヴァレフスキを出産した。
1807年2月アイラウの戦いと6月のハイルスベルクの戦いは、猛雪や情報漏れにより苦戦し、ナポレオン側が勝ったとはいうものの失った兵は多く実際は痛みわけのような状況であった。しかし同6月のフリートラントの戦いでナポレオン軍は大勝。ティルジット条約において、フランスから地理的に遠く善戦してきたロシアとは大陸封鎖令に参加させるのみで講和したが、プロイセンは49%の領土を削って小国としてしまいさらに多額の賠償金をフランスに支払せることとした。そしてポーランドの地にワルシャワ公国と、ヴェストファーレン王国をフランスの傀儡国家として誕生させた。ヴェストファーレン王には弟ジェロームを就けた。スウェーデンに対してもフランス陸軍元帥ベルナドットを王位継承者として送り込み、ベルナドットは1818年に即位してスウェーデン王カール14世ヨハンとなる。スウェーデンはナポレオンの影響下にはあるものの、ベルナドット個人はナポレオンに対し好意を持ってはおらず強固たる関係とはいえない状態であった。またデンマークはイギリスからの脅威のためにやむなくフランスと同盟関係を結んだ。とはいえデンマークはナポレオン戦争の終結まで同盟関係を破棄することはなかった。
ナポレオンの勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧し、イタリア・ドイツ・ポーランドはフランス帝国の属国に、オーストリア・プロイセンは従属的な同盟国となった。この頃がナポレオンの絶頂期と評される。(ウィキぺディアから参照しています)